【開催レポート】金曜夜の哲学カフェ@Alternative Living展(3/14)


3月14日に開催された金曜夜の哲学カフェのテーマは、『「住める」と「暮らせる」の境界線について』でした。ファシリテーターは安本が務め、15名の方々がご参加くださいました。そのうち半数以上が哲学カフェ初参加ということで、新鮮な空気が流れる場となりました。

今回のテーマでは、デザインやアート、テクノロジーが都市生活を支える一方で、排除や孤立を生み出す可能性について問いかけました。公共空間の設計や技術の発展は、果たして新たな格差や分断を生んでしまうのか。未来の都市は本当に「誰もが住めて暮らせる場所」となり得るのか。そんな問いをもとに、「住む」と「暮らす」の違いやその境界線について、参加者全員でじっくり考える時間となりました。対話の中では、年齢を重ねて小さな文字が見えにくくなり、不便さを初めて実感したという体験から、「誰に向けて作られたものか?」という視点が浮かび上がりました。そこから話題は「差別化」という言葉へと広がり、「差別」は避けるべきものなのに、企業はなぜ「差別化」を目指すのか?「区別」との違いは何なのか?という問いが投げかけられ、みなさんが活発にお話くださっていました。再び「誰に向けているのか」という問いに立ち戻り、「そもそも『みんな』とは誰を指すのか?」という根本的な問題に向き合います。そして、最初のエピソードに戻りながら、「当事者になって初めてそれが『自分ごと』になる」という意見が出されました。

最後は、「自分ごととはどういうことか?」について最も多くの時間を費やしました。この問いを通して、哲学カフェならではの、それぞれの視点から考えが深まる醍醐味が味わえた濃密な時間となりました。「住める」と「暮らせる」の違いは、その奥にある人と空間の関係性や、感情が重なり合う中で、じわじわとにじみ出てくるものなのかもしれません。この日、交わされた一つひとつの言葉を振り返ると、「暮らす」という行為の中には、“居場所”という言葉では収まりきらない、身体感覚や記憶、関係性の積み重ねがあるように思えました。そしてその誰かにとっての“快適さ”は、別の誰かの“不自由”になることがある。

問いが生まれ、揺さぶられ、また戻ってくる。その循環の中に、哲学カフェの面白さがあるのだと改めて感じました。
(ライター:しほ)

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アーダコーダ事務局