【開催レポート】「10代のための哲学対話部@オンライン」8月第1回イベント

開催日時:8月10日(土)14:00~16:00
参加者:3名(内インターン生2名)
進行役:板野

始まり
まずはイベントのタイムスケジュールを確認し、次いでアイスブレイクを兼ねた自己紹介を行いました。

参加した人たちには、①このイベントで呼んでほしい名前、②参加理由、③暑い日のリフレッシュ方法、これらのことを話してもらいました。

次に、「哲学対話とは何か」について、また対話のためのいくつかの心がけを、進行役から説明しました。今回の参加者は全員アーダコーダのインターン生なので、これらのことについてそれぞれが一定程度の理解を持っているはずですが、イベントに際して共通の理解を作るために、これらの説明を行いました。このイベントでは哲学対話を、「なんとなく気になるけど、普段はあらためて考えない疑問や、素朴で身近だけど、すぐには答えが見つからなさそうな疑問について、みんなで語り合って思考を深めていく活動」と定義しました。

また、心がけて欲しいこととして

  1. 他の人の発言を遮らない、悪口や誹謗中傷をしない。
  2. 哲学者や偉い人の言葉の引用よりも、自分らしい意見を大切にする。
  3. 考えや発言がまとまらなくても大丈夫。
  4. 他の人の意見も柔軟に取り入れてOK。
  5. 発言しない時間が長引いても大丈夫。沈黙は気にしない。
  6. 他の人の発言中は、できる限り相槌を打つ。

以上の6点を挙げました。

問い出し
各参加者から自由に、今回話してみたい問いを提案してもらいました。候補として、

  • すべての人間にとって共通する「幸せ」の概念はあるのか?(むしろ「人それぞれの幸せがある」とよく言われるが、本当にそうか?)
  • 「正しい人」とはどんな人なのか?
  • 「正しい人」と「善い人」は違うのか?違うのであれば、同じところはないのか?
  • 大多数と少数の人たちで意見が違った時に、どちらが正しいのか?そもそも「正しい」のか?
  • 多数派の時が間違っている時(少数派が正しい時)にはどうしたらいいのか?そもそも、誰かが間違っているということはどうしたら分かるのか?

これらの問いが挙がりました。出そろったところで評決をとり、今回は、多数派の方が間違っている時(少数派が正しい時)にはどうしたらいいのか?そもそも、誰かが間違っているということはどうしたら分かるのか?という問いについて対話をすることになりました。

対話
まず、この問いを提案したファシリテーターの板野から、問いを提案した理由や現時点での考えを次のように述べました。

板野:歴史の中で、様々な社会の多数派が重要な事柄について間違った考えを抱く、ということはよくあったと思う。例えば人種や性、その他の事柄に関する差別的な考えが、かつては今よりも広く受け入れられていた。それらの考えが間違っていたということは、長い時間をかけて、またしばしば大きな衝突を経ることで判明しつつある。もう少しましな仕方で、このような変化をもたらすことはできないのだろうか?これに対して、次のような意見が挙がります。

参加者A:自分の意見が間違っていることが分かるには、問い、考え続けなければならない。それをどう多数派の人たちにさせるかということが問題だと思う。

参加者B:自分たちの考えが正しくないということ、間違っているということを多数派の人たちに気づかせるには、何らかの証明が必要になるのかもしれない。「自分で自分を疑う」ことが多数派の人たちにとって難しいならば、少数派の人たちがなぜ自分たちの意見が正しいのかを提示できるとよい。例えば、「地球は丸い」という信念が次第に受け入れられるようになった経緯もおおむねそのようなものなのではないか。

板野:「地球は丸い」という自然科学的な事柄とは異なって、道徳的な事柄を科学的に証明することはあまり意味がないか、そもそも不可能ではないか。

ここで板野から、「多数派には受け入れられていないが正しいと思われる考え」の一例として、「道徳的には動物の肉を食べてはいけない」という考えを挙げ、これについての他の人たちの賛否を問いました。

板野:…そもそも、我々は動物の肉を食べてもよいと思いますか?

参加者A:自分は普段、肉を食べてもいいのかだめなのかは考えない。考えずして自然的に、経験的に肉を食べているという感じ。改めて考えると、直感的には食べてもいいと思った。ただ、そう思った根拠が明らかなわけでもない。

参加者B:自分は、動物の肉は食べてもよいと思う。例えばライオンが他の動物の肉を食べているのは自然なことで、人間についても同様。

ここから、議論の軸は「動物の肉を食べることの是非」にシフトしていきました。

参加者B:例えば豚を食べるとして、豚に睡眠薬を投与してから屠殺する、とか、苦痛を感じない殺し方をしたらならば食べていいのか?また、何かを食べることは必ず、何かの命を奪うことにつながる。だとすると、「食」というもの自体、そもそも道徳とは結びつけられないものなのではないか?

板野:苦痛を感じない環境で飼育され、苦痛を感じない方法で屠殺されたならば、その動物の肉は食べてもいいのではないかと思う。「人を殺してはいけない」という道徳の基礎には、「自分はあなたを殺さないからあなたも私を殺さないでね」という考え方がある。そうした契約は、おそらく、家畜と人の間では成立しないと思う。

…対話はこのまま、「動物の肉を食べることの是非」をめぐって進行していきました。参加者間で意見は割れたままタイムアップになりましたが、その後の思考のためにも有益な論点が数多く示された対話であったように感じます。

感想・振り返り
今回の対話では、「多数派の方が間違っている時(少数派が正しい時)にはどうしたらいいのか?」という問いから「我々は動物の肉を食べてもよいのか?」という問いへと、かなり明確に論点が移り変わりました。論点がずれた、というよりは、より扱いやすい問いに移るべくして移った、という印象です。つまり、当初の抽象的で幾分曖昧な問いから、ある程度具体性の高い、焦点化された問いへと移行した形です。結果的にはこの移行によって、対話はより有意義なものとなったのではないでしょうか。(ライター:板野)

この記事を書いた人

アーダコーダ事務局